「たかの友梨」の名前は知ってるけど、実は何をした人か知らなかった

「たかの友梨」。

テレビをつければQVCで化粧品を紹介している姿を見かけるし、街を歩けばビューティクリニックの看板が目に入る。名前だけなら、たぶん多くの人が知っていると思います。

でも、「たかの友梨って何をした人?」と聞かれたら、正直、私もつい最近まで答えられませんでした。「エステの人でしょ?」程度の認識です。

元女性誌ライターの沢村絵里と申します。美容業界を15年ほど取材してきましたが、恥ずかしながら、たかの友梨さんの経歴を本格的に調べたのは今回が初めてです。

調べてみて驚きました。壮絶な生い立ち、24歳で単身パリに飛んだ行動力、日本にエステティックという文化を根づかせたパイオニアとしての功績。そして30年以上にわたる子供たちへの支援活動。「名前は知ってるけど何した人か知らなかった」という自分が恥ずかしくなるくらい、中身の濃い人生を歩んできた方でした。

この記事では、たかの友梨さんの生い立ちからエステ業界への貢献、社会貢献活動まで、調べて分かったことをまるっとまとめていきます。

そもそも「たかの友梨」って何者なのか

たかの友梨(本名:高野友梨)さんは、1948年1月22日生まれ、現在78歳のエステティシャン・実業家です。

最も知られているのは「たかの友梨ビューティクリニック」の創業者であること。1978年に東京・新大久保に1号店をオープンし、現在は全国に約70店舗を展開しています。運営会社の株式会社不二ビューティは従業員762名、年商90億円(令和5年12月期)という規模です。

ただ「エステサロンの経営者」と言ってしまうと、この人の全体像の10分の1くらいしか伝わりません。主な肩書きだけでも、

  • 一般社団法人エステティックセラピスト協会 会長
  • ビューティ&ウエルネス専門職大学 客員教授
  • ミス・ユニバース審査員
  • NPO法人地球こどもクラブ 副会長
  • 公益財団法人School Aid Japan 評議員

と、活動の幅広さが見てとれます。

エステティックという言葉すら一般的でなかった1970年代に、単身パリに渡ってこの技術を学び、日本に持ち帰った人。厚生労働省がエステティック業を「手技または化粧品・機器等を用いて、人の皮膚を美化し、体型を整えるなどの指導又は施術」と定義していますが、その「エステティック業」という産業そのものを日本に根づかせた立役者の一人が、たかの友梨さんです。

知れば知るほど驚く、壮絶な生い立ち

養子として育った少女時代

たかの友梨さんの生い立ちは、読んでいて胸が痛くなるほど壮絶です。

新潟県南魚沼郡湯沢町で、医師の父と看護師の母の間に生まれました。ただし両親は正式な夫婦ではなく、父には別の家庭がありました。

その後、複数の預け先を転々とし、養母の八千代さんに引き取られます。たかの友梨さんは中学卒業まで八千代さんのことを実の母だと信じていたそうです。戸籍謄本で養子だと知ったときのショックは相当なもので、入水自殺を試みたこともあったと、2022年のフジテレビ「ボクらの時代」で本人が告白しています。

真冬の川の冷たさで我に返り、「自分の力で生きていこう」と決意した。このエピソードだけで、一本の映画が作れそうなくらいです。

小学3年生からは群馬県片品村の祖母のもとに預けられ、11人の大家族の中で家事全般を担う日々を送ります。厳しい躾のもと、礼儀作法と義理人情を叩き込まれた。この時期の経験が、後のビジネスにおける対人力の土台になったのだろうと感じます。

「手に職をつけなさい」が人生を変えた

養母の八千代さんの口癖は「男に頼らないで生きていきなさい」「手に職をつけなさい」でした。

この言葉に背中を押される形で、たかの友梨さんは前橋市立第四中学校を卒業後、群馬県立前橋女子高等学校の定時制に通いながら、昼間は理容学校に通う生活を始めます。

理容の腕はめきめき上達し、県内の競技会で入賞するまでに。高校と理容学校の二足のわらじをこなすバイタリティは、この方の人生を通じてずっと一貫しています。

24歳、貯金を全額握りしめてパリへ飛んだ話

ニキビだらけだった20代前半

20歳で上京した後のたかの友梨さんの生活は、文字通りの「三毛作」でした。昼は竹橋の理容店で勤務、夜は居酒屋でアルバイト、さらに山野美容学校の通信科で勉強。

この過酷な生活のツケが肌に出ます。ひどいニキビに悩まされるようになりました。

その後、外資系化粧品会社にビューティアドバイザーとして転職。採用のきっかけが「研修室の鏡を磨いていたのがあなただけだったから」というエピソードは、この人の勤勉さをよく表しています。

言葉もわからないまま、パリのサロンで8ヶ月修行

1972年、24歳のたかの友梨さんは一大決心をします。ニキビ治療の手がかりとパリの先進的な美容技術を学ぶため、貯金24万円でオープンチケットを購入し、単身渡仏。英語もフランス語もできない状態でした。

帰りのチケットすら保証されていない中で異国に飛び込む。この行動力、なかなか真似できるものではありません。

パリのサロンで8ヶ月間、エステティックの技術を学びました。言葉の壁がある中での修行がどれほど大変だったか。ただ、ここで吸収した技術と知識が、帰国後に「日本のエステティック業界を作る」という仕事の原点になります。

帰国後、日本のエステ業界を一から作った

美顔器「ヴィッキー」で起業

パリから帰国した翌年の1973年、たかの友梨さんは株式会社東京美機を設立。25歳での起業です。

パリで出会った吸引式美顔器に感動し、1年半かけてドイツ製の機器を日本の家庭向けに改良。「ヴィッキー」と名付けたこの美顔器を2万8,000円で販売したところ、通信販売で好調な売れ行きを記録します。コーセー化粧品から3,000台の大口注文が入ったというのだから、かなりのヒットです。

この「ヴィッキー」は実用新案も取得しています。フランスで学んだ技術を日本市場に合わせてアレンジし、ビジネスとして成立させる。技術者でありながら、経営者の目線もしっかり持っていた人だとわかります。

1978年、新大久保にビューティクリニック1号店

1978年、東京・新大久保に「たかの友梨ビューティクリニック」の1号店をオープン。翌1979年には法人として株式会社不二ビューティを設立しました。

このタイミングの重要性を説明するために、少し日本のエステ業界の歴史に触れておきます。

日本でエステティックの概念が生まれたのは1949年。美容家の芝山みよかさんが銀座に美顔専門の美容室を開いたのが始まりとされています。一般社団法人日本エステティック協会が設立されたのが1972年で、たかの友梨さんがパリへ渡った年とぴったり重なります。

1970年代は高度経済成長を経て美容への関心が急速に高まった時代です。TBC(コミー株式会社)の設立が1976年ですから、たかの友梨ビューティクリニックの1号店オープンはまさにエステ業界の「黎明期」のど真ん中でした。

日本のエステ業界の動き
1949年芝山みよかが銀座に日本初の美顔専門美容室を開業
1972年日本エステティック協会(前身)設立。たかの友梨がパリへ渡仏
1973年たかの友梨が株式会社東京美機を設立
1976年TBC(コミー株式会社)が設立
1978年たかの友梨ビューティクリニック1号店オープン
2002年エステティック業が日本標準産業分類に正式登録
2013年たかの友梨ビューティクリニックが日本のエステサロン初のISO9001認証取得

その後の成長はご存じの通り。全国にチェーンを拡大し、2013年には日本のエステティックサロンとして初めてISO9001の認証を取得しています。品質管理の国際基準をエステ業界に持ち込んだのも、たかの友梨さんの功績です。

「たかの友梨 子供」で検索する人が多い理由

「たかの友梨 子供」というキーワードで検索する人が意外と多いのですが、このキーワードの裏にはいくつかの文脈があります。

まず、たかの友梨さん自身が養子として育った過去。先ほど書いた通り、壮絶な幼少期を経験しています。

そしてもう一つ。たかの友梨さんは、自身が子供時代に苦労した経験を持つからこそ、長年にわたって子供たちの支援活動を続けているのです。

35年以上続く、児童養護施設への支援

たかの友梨さんは、児童養護施設「鐘の鳴る丘 少年の家」の後援会長を務めています。この支援は1989年に始まり、35年以上にわたって途切れることなく続いています。

具体的な支援内容を挙げると、

  • 毎年のクリスマスプレゼントの配送(2007年から継続)
  • 東京ディズニーランドへの招待(1999年から毎年)
  • こどもの日の集い、ハロウィンパーティーの開催
  • 屋内体育館「レインボーホール」の寄贈(2002年)
  • 食育施設「レインボーハウス」の寄贈(2007年)
  • 「レインボーガーデン」の完成(2022年)

イベントの開催だけでなく、施設の建物そのものを建てて寄贈しています。「支援」という一言では収まらないスケール感です。

自身が養子として育ち、辛い子供時代を過ごしたからこそ、同じような境遇の子供たちに手を差し伸べ続けている。この活動を知ると、「たかの友梨」という名前に対する印象がだいぶ変わります。

カンボジアに学校を4校建てた話

国内の児童支援だけにとどまりません。たかの友梨さんは公益財団法人School Aid Japanの評議員を務め、2011年から2017年にかけてカンボジアに小学校・中学校の校舎を計4校寄贈しています。

さらに、2018年の西日本豪雨では私財を寄附して紺綬褒章を受章(2019年)。2024年の能登半島地震にも義援金キャンペーンを展開し、2025年に2度目の紺綬褒章を受章しました。紺綬褒章を2回受章している民間人は、そう多くはいません。

たかの友梨さんの子供支援や経歴について詳しく知りたい方は、たかの友梨の子供時代から現在までの歩みがまとめられたページも参考になります。

78歳、まだまだ現役のたかの友梨

78歳の現在もたかの友梨さんは精力的に活動しています。

代表取締役会長として経営に関わりながら、QVCジャパンでは自社コスメブランド「エステファクト」のテレビ通販に月2回以上のペースで出演中。2022年にはフジテレビ「ボクらの時代」でIKKOさん、アンミカさんと共演し、養子として育った過去を初めてテレビで告白して話題になりました。

2023年にはプラチナエイジスト賞のビューティー部門を受賞。同年、ビューティ&ウエルネス専門職大学の客員教授にも就任しています。

著書も多く、自伝的な内容のものから美容・ダイエットの実用書まで幅広く出版しています。

  • 『不運は神様からのおくりもの』(2015年、IN通信社)
  • 『なぜか、人とお金がついてくる50の習慣』(2011年、フォレスト出版)
  • 『運が悪くてよかった!』(IN通信社)
  • 『願いをかなえる秘密の法則』(三笠書房)
  • 『1日10分!ひとりでできるインド式マッサージ アーユルヴェーダ美人道』(情報センター出版局)

タイトルを見ると、たかの友梨さんの人生哲学が伝わってきます。「不運は神様からのおくりもの」「運が悪くてよかった」。壮絶な半生を歩んできた人だからこそ、この言葉に重みがあります。

主な出来事
1948年新潟県に生まれる
1972年単身フランスへ渡航、8ヶ月間エステ修行
1973年株式会社東京美機を設立、美顔器「ヴィッキー」を開発
1978年たかの友梨ビューティクリニック1号店を新大久保にオープン
1989年児童養護施設「鐘の鳴る丘」への支援を開始
2013年日本のエステサロンとして初のISO9001認証取得
2017年IPSN栄誉賞を受賞
2019年紺綬褒章を受章(西日本豪雨への私財寄附)
2023年プラチナエイジスト賞ビューティー部門を受賞
2025年2度目の紺綬褒章を受章(能登半島地震への支援)

こうして年表にすると、50年以上にわたって走り続けてきた人だということがよくわかります。

まとめ

「たかの友梨って何をした人?」という疑問から調べ始めて、気がつけばかなりのボリュームの記事になっていました。それだけ、この人の人生には語るべきことが多い。

養子として壮絶な幼少期を過ごし、「手に職をつけなさい」という養母の言葉を胸に理容師を目指し、24歳で貯金全額を握りしめてパリへ。言葉もわからない異国でエステの技術を身につけ、帰国後は美顔器開発からサロン経営、そして日本のエステ業界そのものを切り拓いてきた人です。

そして何より印象的だったのは、35年以上にわたって子供たちへの支援活動を続けていること。成功した経営者が社会貢献をすること自体は珍しくありませんが、30年以上途切れず続けているのは、ビジネス上の打算ではなく、自分自身の経験に根ざした本気の行動だからだと思います。

78歳にしてなお現役。「名前だけ知ってる人」から「中身を知った人」に変わると、街で「たかの友梨ビューティクリニック」の看板を見たときの印象が、ちょっとだけ変わるかもしれません。